散歩ブログ

    いろいろな本を読みます。時々散歩に出ます。

    『寛容と人権 憲法の「現場」からの問いなおし』を読む

     憲法の勉強には、芦部憲法や最高裁判所判例解説などすばらしい素材がいくつもあります。が、憲法って役に立っているのかな、とか、しょせん絵空事でしょとか、そもそも法は機能しているのかななど不安なイメージが頭をよぎるとき、

     「法は、こうやって運用するんだよ。」

     と、お手本を見せてくれるのが、この本

     「寛容と人権」 中川 明 著 です。

    • 岩波書店 ISBN978-4-00-025903-3

     多様性と同調性、寛容と排除が常にせめぎあう社会では、多数派の一員となって、同調と排除の波に乗る方が圧倒的に楽です。今日の私は、昨日より不寛容になりがちです。安穏と目をつぶる私に、

     「それって、どうなの。」

     と、問いかけてくるのが、この本です。

     中川明先生が読者に期待されることは、

     「あなたは、どう考え、どう行動しますか?」

     だと思います。私も小さな脳みそで中川先生に答えていきたいと思います。

    1章 「寛容と人権についての序論的考察」について(1)

     中川先生は、第1章で上記テーマを取り上げられ、憲法訴訟ひいては日本社会において、多数派が少数派に対し寛容を押しつける現状を明確にし、問いなおされます。

     先生が裁判にかかわられた「日曜日授業参観訴訟」は、キリスト教宗派の牧師一家の子ども2名(当時小学生)が、両親の主宰する日曜礼拝と日曜学校(教会学校)に出席するために、通っていた公立小学校の日曜参観や運動会を欠席したところ、小学校から欠席扱いにされ、その旨を指導要録に記載されたため、(1)欠席記載の取消し 及び (2)信教の自由を侵害されたことに対する精神的苦痛の慰謝を請求して提訴した裁判です。判例百選にも取り上げられた著名な裁判ですね。

    • 日曜参観とは?

     日曜参観は、通常の授業を休日である日曜日に実施するもので、法的根拠は学校教育法施行規則47条及び同但書です。子どもには、日曜日の授業に出席する義務があり、親の参観は任意です。

     日曜参観を含めて、いつ授業参観をするか、何回実施するかは学校長の裁量に委ねられています。この公立小学校では、日曜参観は年に1回だったようです。

    • 欠席記載とは?

     指導要録に授業日に欠席した旨と理由を記載する行為です。欠席理由には、病欠と事故欠があり、本件では事故欠に当たります。

     原告側は、欠席記載の法的性質として行政処分であると主張したのに対して、被告側(当時の学校長)は、事実行為にすぎないとして、処分性を否定しました。1審は、処分性を否定しており、一部却下判決が下されました。

     また、原告側は、欠席記載等により精神的苦痛を被ったことに対する慰謝料を求めて国賠請求したのに対して、原告には一定の事実上の不利益が生じたものの学校長の行為は裁量権の範囲内で適法であるとして、請求棄却判決が下されました。

    -思うこと-

     一審判決には、この日曜参観を欠席した生徒が10人おり、そのうち事故欠にあたると思われるものが原告2名の他に2名あった旨の記載があります。結婚式、法事が理由だったようです。冠婚葬祭の儀式への出席は世俗的にやむを得ない、多数派の事情と評価されやすいでしょうが、日曜学校への出席となると、少数派の異論として衝突が起きてしまいます。

     今の社会に置き換えてみますと、宗教が絡まない場合であっても、受験で欠席するのは正当性があるとして、全国模試なら? 塾内テストなら? 家族旅行なら? どうでしょうか。あるいは、子役タレントの芸能活動、囲碁将棋などへの大会出場だとどうでしょうか? 今や子どもの活動は学校と家庭にとどまりません。

     ここで忘れてはならないのが、原告にとって日曜参観と天秤にかける決断を迫られたのが、日曜礼拝と教会学校という個人の人格に深く結びついた宗教活動であった点です。

     そうしますと、自己都合による欠席(事故欠)は、子どもの人格を傷つける危険が非常に低いものと極めて大きなものに二極化しそうです。だからといって、欠席記載という1つの行為がある者との関係では処分性を否定し、別の者との関係では処分性を肯定するという使い分けはできないでしょう。

     一律に処分性を否定した判決は多くの人に受け入れやすいものですが、憲法が公権力による弱者の権利利益侵害を救済するためにこそ機能するのなら、裁判所は学校側が欠席記載や日曜参観授業に代わる代替措置を取らなかったことで、子どもたちの信教の自由を深く傷つけたという事件の本質を直視して、処分性・違法性を肯定すべきだったと思います。

     さて、そこまで大切な宗教なら、教義に合った私立学校へ通えばいいだけで、わざわざ公立学校へ来て、文句を言う方がおかしい、という考え方があります。

     私立/公立を含めて学校の選択は、親と子どもの決定に委ねられます。原告の家族が公立学校を選んだ時点で、他人が口をはさむことではないと思います。公立学校の良さは、多様な立場に置かれた子どもを受け入れる点にあります。不均質な集団、自分とはまるで異なる子どもと関わることで、衝突しながら互いに人格を形成していく場だと思います。

     公立学校では(文部科学省の狙いとは離れるかもしれませんが)、均質な集団生活になじむというよりも、異質な人にかかわったり、無理に仲良くする必要もないけれども、その人が存在しないかのように振る舞うこともできないことを体験する方が、先の人生にとって重要だと思います。

    • 宗教とともに生きる子ども

     中川先生がこの裁判に関わられた中で、最も際立った点は、一貫して、子どもの心に真摯に寄り添う姿勢です。子どもを一人の個人として尊重するとともに、成長過程にある子どもの心を注意深く観察し、その成長を助けるための裁判を心がけられた姿勢です。

     今の日本社会で宗教を心のよりどころとして生きる子どもは、マイノリティに属するでしょう。さらに、子どもの信仰心は親など保護者の強い影響下にあるでしょう。そうしますと、特に公立学校で学校教育を受ける年齢になった子どもたちは、圧倒的多数派を構成する世俗的な大人と子どもとの関係をとおして葛藤や刺激を受けると同時に、確固たる信仰心を持つ親などによる宗教教育を受けながら、懸命に自己を探る道を歩くわけで、その人格は大人に比べて極めて傷つきやすいでしょう。

     自分で選びとる前にマイノリティに属することになった子どもたちに対して、民主主義社会は多数派の原理を押しつけてはならない、多様性を受け入れることこそ民主主義の原点であるという先生の主張は、上っ面だけの勉強しかしなかった学生時代がはるか昔になった今、私の心のよりどころの一つです。

     ※参考文献 『宗教と子どもたち』 中川 明編 明石書店

    • ISBN4-7503-1459-5

     次回は、日本人の同調的伝統と人権感覚について読み直します。